ひとりの道標

結婚できないひとり専門家、ひとり力を高めよう

無縁社会なんだろうか?と考えてみた私

無縁社会というコトバが最近話題になっています。人が無縁であることなどないと思うのですが、無縁である状況は生まれるのかもしれません。 ひとりの道標 無縁社会。 NHKでしばしば特集される番組がありますが、その番組では、無縁=人との繋がりのない事としたいようです。縁がないという意味においては、全く袖が触れ合わない状態である事とは少々違ったニュアンスです。例えるなら、北海道と沖縄に住む人ではまず縁がない。この番組の無縁社会という概念では、東京で同じ会社で働いていたが、退職して北海道と沖縄に戻った友人がいた。退職してからは縁がなくなった。と何かの要因によって起こる無縁を表現しているようです。 父、母があり私の誕生があります。この世に生を受けた瞬間から、大きな縁が発生します。なんとか総理ならこれを第1の縁と言うのかもしれません。そうです。肉親や親類といった血縁関係が第1の縁。そして成長するにつれ私の友人が誕生します。私は活発な明るい子だったかもしれません。大人しい控えめな子だったかもしれません。この友人関係が第2の縁です。 私に好きな女子ができました。あるいは男子ができました。異性との縁は第3の縁です。私は成長し学問を学び仕事を始めます。様々な考えをもった人や上下関係、出世したいとかしたくないとか、悩みの誕生が第4の縁。そして第3の縁は様々な姿となって成長します。第5の縁である異性との生活が始まります。 勝手に縁に番号をふりましたが、もっと多くの縁があることは実感できると思います。今何故縁がなくなるのか?または、縁を求めるのか?価値観に限らず、趣味や嗜好の多様化といわれる現代ですが、考えてみてください。多様化した全てのものが興味の対象ではないはずです。今も昔も私の興味の範囲は変わらないのです。 つまり、私は狭い世界で生きているだ。 と言うことです。多様化というコトバからは、何かの匂いがプンプンするのです。無縁である前に本当に無縁なのか?自問する私がいても良いと思うのです。もっとも経済的な逼迫は、無縁の温床であるという事が言われます。ただし、この事は最も私が解決しなければならないことである気がします。 ベーシックインカムというコトバを聞く機会が多くなりました。最低限の保障は、どんな人にも平等にあるはずです。また頑張れる社会は、無縁社会と大いなる関係がありそうです。ただ、完全なる自分の鎧のある人はいいが、中途半端な鎧で無縁だと思っている人は、どうぞ!鎧を脱いでください。誰かに甘えることは、無縁とオサラバするチャンスかもしれません。 高齢者の孤独は多々問題があるのでしょう。高齢者が困ったといえばすぐお金にしようとする人もいる。経済活動としては正解なのでしょうが、核家族化した高度成長期以後の日本において、容易に想像できた姿だったのかもしれません。このサイトのキッカケになった事は、今ひとりの私が死んでしまったら、今ある契約はどうなるの?どうそれを伝えたらいいの?という事でした。 無縁という事はなかなか興味深い話であり、でも、もしかすると私が少し勇気をもって行動すれば・・・。案外解決するのではないでしょうか?本当の孤独というものは、私は何のために生まれてきたか?なんて考える余地もない程に強烈なのです。またお話する機会もあるかもしれませんが、上をみたらキリがない。だけど下をみなさいということです。